奧山道郎

大日本帝国陆军军官

奧山道郎(日語:奥山 道郎おくやま みちろう Okuyama Michirō,1919年4月10日—1945年5月24日[1]),日本三重縣[1]陸軍士官學校第53期學員,大日本帝國陸軍軍官,義烈空挺隊日語義烈空挺隊隊長。1945年,奧山道郎於沖繩陣亡,歿年26歲,死後追授大佐軍銜[1]

奧山道郎
奧山道郎對義烈空挺隊隊員作最後指示
出生(1919-04-10)1919年4月10日
 大日本帝國三重縣
逝世1945年5月24日(1945歲—05—24)(26歲)
 大日本帝國沖繩縣
軍種 大日本帝國陸軍
軍銜 陸軍大佐(死後追授)
參與戰爭第二次世界大戰

生平 編輯

奧山道郎於1919年出生在日本三重縣,是陸軍炮兵中佐奧山春次郎(陸軍士官學校第18期學員)的長子。其青年時期就讀於千葉中學(今千葉縣立千葉初高級中學日語千葉県立千葉中学校・高等学校)和津中學(今三重縣立津高級中學日語三重県立津高等学校),後入讀東京陸軍幼年學校日語東京陸軍幼年学校。1940年2月,奧山道郎於陸軍士官學校畢業。1940年5月,奧山任陸軍工兵少尉,加入工兵第11聯隊,同年12月進入挺進練習部日語第1挺進集団。1941年8月,奧山晉升陸軍中尉,同年11月加入教導挺進第1聯隊日語挺進連隊,次年成為聯隊中隊長,12月晉升陸軍大尉。1944年11月,奧山加入第6航空軍日語第6航空軍 (日本軍)司令部。1945年5月24日晚,在隊長奧山道郎的率領下,150名(一說120名)義烈空挺隊隊員在熊本市健軍機場集結。在各自向家鄉遙拜後,眾人登上了十二架轟炸機,向被美軍佔領的讀谷機場日語読谷補助飛行場(沖繩北部)和嘉手納機場(沖繩中部)進發[2][3][4][5]。「哪怕是身處南海之島,我也會微笑着為國奉獻」(吾が頭南海の島に 瞭さるも 我は微笑む 國に貢せば),此俳句為奧山道郎的遺言[4]。雖然奧山道郎在出戰前就已被告知晉升少佐,但他從未佩戴過少佐徽章[6]。由於發動機故障等問題,其中四架飛機不得不折返,因此只有八架飛機飛往沖繩。而這僅剩的八架飛機中,有七架被美軍密集的防空火力擊落,其中就包括奧山的一號機[4]。6月10日,奧山道郎晉升陸軍少佐[1]。6月15日,奧山道郎被認定陣亡,追授大佐軍銜[1]

參考文獻 編輯

  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 秦 2005,第42頁,第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:奧山道郎
  2. ^ 報道製作局, 琉球朝日放送. 語り継ぐ沖縄戦2011 (3) 義烈空挺隊 ある県出身隊員の思い. QAB NEWS Headline. [2023-04-05]. (原始內容存檔於2023-04-06) (日語). 
  3. ^ 読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 義烈空挺隊の北、中飛行場攻撃 玉城裕美子. yomitan-sonsi.jp. [2023-04-05]. (原始內容存檔於2023-04-05). 
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 井上和彥. ありがとう日本軍: アジアのために勇敢に戦ったサムライたち大東亜戦争写真紀行. PHP研究所. 2015-08-19 [2023-04-05]. ISBN 978-4-569-82610-3. (原始內容存檔於2023-04-05) (日語). 
  5. ^ キーワード沖縄戦(49)義烈空挺隊 | 沖縄タイムス+プラス ニュース. 沖縄タイムス+プラス. [2023-04-05]. (原始內容存檔於2023-04-06) (日語). 
  6. ^ 会報 特攻 (PDF). 公益財団法人 特攻隊戦沒者慰霊顕彰會: 21. 1995年5月 [2023-04-05]. (原始內容存檔 (PDF)於2023-04-05). 

書目 編輯